Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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旧暦 1993.5/4.
“その瞬間をことごとくものにしてきた”私達、すなわち、常に運命愛をものにしてきた私達は、没落の危険を見つめながら常に急いできたのだし、恐らくは旧暦の最果ての年月の流れの中にあって、いよいよその速度を早め、あらゆる、そしてちょっとしたそれぞれの誤解をとき、決着をつけ、未知の扉を開くことになる。ここはやはりランボオだ。“フランスの豚ども”の息の根を止めたランボオ。 「いかにも、新しい時というものは、何はともあれ、厳しいものだ。(……)
暁が来たら俺達は、燃え上がる忍辱の鎧を着て、光り輝く街々に入ろう。(…)
―俺は下の方に女どもの地獄を見た、さて、俺には、魂の裡にも肉体の裡にも、真実を所有する事が許されよう。」
“真実を所有する事”とは、“最後の一グルデンを賭けること”に他ならない。一グルデンでしかないのだ。 N.


前略
お忙しいところ、大変失礼いたします。先日、『貨幣論』を強い関心とともに読み終えた一読者として、誠に勝手ながら、貴著が抽出している《問題》との間で共鳴していると思われる私自身の記述を同封させていただきました。こうした共鳴は、もちろん私が大変な失礼をも省みず勝手に想定しているものなのですが、そうせざるを得なかったほど私にとって貴著が際だっていました。
同封したこの記述は、日付に関してその当時の記録があるものに限定すれば、私がキリスト暦1975年10月から1990年2月15日までの間に書き留め、その後同1990年9月2日から1992年7月18日までの間にごくゆるやかな形へと編成し直したものの後半です(・~・のうちの・-2~・)。記述中の《旧暦》という表現は、言ってみれば、あるいは「無限のかなた」のものかもしれない《未来の記憶》から見た現在のキリスト暦の呼称です。例えば、・-1の最終部分の断片に現れた【旧暦1987.12月】は、イスラエルの軍事占領に抵抗するパレスティナの子供達を核としたインティファ-ダが決定的な形で開始された時を示しています。(パレスティナの子供達は、後に述べる《国家-状態》と《資本-状態》の連結/循環過程に対する不断の抵抗の身振りとして、《異邦人》への、そして《民衆》への極めて困難にみちた生成過程であると言えます。)
さて、せっかくですので、《問題》に関して多少述べることにします。まず、この記述全体をごく簡潔にまとめてみます。没落するかつての〈我々〉は、おそらくは新たな《民衆》として生成する、あるいは生まれ変わるわけですが、その転換点へといたるプロセスを、恒常的に予定されていたはずのサイクルの《隙間/裂け目》から記述したものです。ここで〈我々〉とは、《国家-状態》(特に・-2を参照)と《資本-状態》がいわば〈超-溶融状態〉において絶えず連結/循環し続ける場面(先のサイクル)での生成体を意味しています。しばしば《我々(=)人間》と(その同じ〈我々〉によって)呼ばれます。《資本-状態》とは、もちろん貴著の表現である「貨幣のある世界」の状態ですが、言ってみれば、これは《国家-状態》と互いに陰画になっていると考えられます。現在超-加速状態にあるいわゆる「グローバル化」の成立条件でもあるこれら両状態の連結/循環過程の仕組みについては、出来ればいずれさらに分析を進める予定です。また、《民衆》とは、無数の潜在的な《触発-ファクタ-》(・の《身体-胎児》)を内包している生成過程としての〈何の変哲もない身体〉を、従って、〈我々〉という生成体を常に超え出ている生成過程としての身体を意味しています。さらに「《隙間/裂け目》から」とは、例えば貴著の言葉で言えば、「〈我々〉によって時に「精神分裂病患者」と呼ばれたりもする《異邦人》の場から」ということです。もちろん、以上のまとめは、「〈我々〉から《民衆》へ」といった直線(的)イメ-ジを前提していません。「新たな」も、「生まれ変わる」も、括弧つきのものであり、本来余計なものです。また、《異邦人》と《民衆》の〈関係〉に関しては、例えば「互いに友達として付き合う」という事態(あるいは出来事)があり得ます。私には、これら両者は、たとえ常に非対称的な変換においてでしかないとしても、しばしば(あるいは絶えず)その位置を入れ換えて生成していると考えられるのです。《異邦人》としての〈私〉が《民衆》としての〈彼〉と《友達》として付き合い、その逆の事態(あるいは出来事)も絶えず(そして同時に)生成しているということです。だとすれば、「《異邦人》としての〈私〉が、《民衆》としての〈私〉と、互いに《友達》として、非対称的な変換の狭間(隙間/裂け目)で付き合う」と言うことも出来るのではないでしょうか。ただ、言うまでもなく、その狭間には常に避けがたい《危機》が潜んでいて、それが何の予告もなしに〈あらわになる〉ことになるわけです。

 繰り返しになりますが、お忙しいところご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫びいたします。お身体にはくれぐれもお気をつけ下さい。それでは失礼いたします。 不一
1993年 5月18日
      ****様



 手紙と批評ありがとう。さっそく返事を書く。今、『道徳の系譜』を読み返した後、私も『スピノザ』を読んでいる。『表現の問題』の方は、現在のフーコーゼミを夏頃に終えた後のゼミの素材にするつもりだ。そうなったら、是非可能な限り参加してほしい。また、フーコーゼミの締めくくりとして夏に合宿を予定している。これも、もし可能なら参加してほしい。もう一つの連絡だが、6・22または29頃に知り合いの(主に社会学研究者たちの)集まりでちょっとした発表および討論会をやるので、それにも出来れば来てほしい。詳細はまた後で連絡する。Gにも誘ってある。
 さて、〈反復〉についてだが、林君の偉大な修論がやはり参照されなければならないだろう。私も余裕が出来たら、改めて読み返してみることにしたい。私の報告書の〈賭〉の位置づけは、今のところかなり両義的なものだ。〈我々=人間〉という習慣的状態(様態)のいわば生成条件のレベルとして、ドゥルーズがニーチェ論においてマラルメを(ヘーゲリアンとして)ニーチェと対照させる場合のように、どちらかといえば否定的・反動的な記号が付加されるものである一方、ドゥルーズが『哲学とはなにか』(特にP.73)においてマラルメをニーチェ論の時とは違って《さいころふり》として評価する場合の様に、それ自身この《さいころふり》へと不可避的に移行=変様していくものとしてもとらえたいのだ。賭の分析は、習慣的反復を前提していると同時に、この分散の反復のレベル(さいころふり)をも前提としている。だが、私の眼差しが注がれていたのは、賭とさいころふりの《狭間》のレベルだと言える。つまり、賭あるいは〈文書〉、あるいは〈我々=人間〉が生成してくるレベルだ。
 末尾の生き物のレベルの描写については、改めてスピノザと交差させてみる必要を感じた。「恐らくここでは、一切の賭はその意味を失う」と言っていいのかも知れない。究極的には、もはや(『知性改善論』での)〈幾何学者〉であることをはるかに乗り超えた『エチカ』のスピノザの内在性の平面へと到達することが永遠の試練になるだろう。
まだまだ語るべきことの手前にしかいないわけだが、またそのうちに会って(および電話で)話そう。それではまた。
                 1996.2.


前略
お忙しいところ、たびたび失礼します。今日の夕方、電話でお話しした『貨幣論』の著者は、岩井克人です。この『貨幣論』での議論を主としてドゥルーズ、ニーチェなどを活用しながら批判的にさらに展開してみたとも言えるのが、先にお渡しした記述の中の〈賭〉と〈文書〉、〈貨幣〉の関わりについての部分です。(もっとも、この『貨幣論』との関わりは、あくまでもありうる一つの視点に即した場合に言えること=一つの可能な読み方であり、記述の含意はそれに尽きません。) 現在ジンメルの貨幣論に興味がおありだとのことなので、もし興味がおありでしたら、『貨幣論』も参照してみて下さい。
 なお、今年の2月に最終的に仕上がった作品全体の記述を渡した(または送った)のは、川上さん以外には新宮一成氏だけです。(ちなみに、新宮氏からは私の作品が「ベケット的な方向を向いている」との指摘がありました。)
 このことにより、川上さんへの私の信頼がお分かりになるものと思います。
 それでは、またの機会まで失礼します。
                      敬具
         1996年3月12日
    
 お元気のことと思います。昨日の電話の続きですが、oration の基本テーマとしては、現時点では、『洗脳体験』、『懺悔録』、『土佐源氏』を素材に、“《性的欲望の装置》として見た告白が、欲望を欠如としてとらえる心身の体勢/体制をどの様に/どの程度不可避的なものにするのか”(無論それぞれの素材はこの点について互いに差異があります)ということにしたいと思います。もとより厳密な分析は出来ませんし、思いつきを述べる程度になるでしょうが、これならほとんどの領域(の問題関心)に関わりますし、前回の報告にも連続します。また、川上さんのイメージを尊重することにもなるでしょう。ニーチェ、フーコー、ドゥルーズ、ラカン、その他2、3人のフェミニズム系のテキストまたはアイディアがざっと使われることになります。(フーコー自身が述べている様な)ウェーバーとフーコーの内在的な接点を探ることも皆さんとの共同作業によってある程度可能だと思われます。
 さて、これは以前電話しましたが、フーコーの『狂気の歴史』ゼミの次の日程が決まりましたので参考までにお知らせします。
 5/2.木曜日 PM.2:00(実際には30分から1時間程度遅れます。) 慶応大学三田 第一校舎4F(但しエレベーターは3Fまでしかありません) 143-A教室
 読む箇所は、第三部第二章『新しい分割』です。
 
 4/27は楽しみにしています。自宅から柏駅までは、さほど渋滞がない場合でも、車で1時間40分はかかります。詳しいことは後ほど決めましょう。**さんを初め、皆さんにはよろしくお伝えください。
                          敬具
           1996.3/24  

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